春と桜と命について

先の更新からあっという間に6日もたっている。

昨夜は上野公園で夜桜をした。呼びかけ人のY女史は寝袋まで持ってくる気合いの入りよう。しかし寝袋は使わず23時でお開きに。なかなかいいお花見であった。
詳細はかみさんが日記にかいていたので、割愛。


かみさんのお花見レポ
http://d.hatena.ne.jp/nekosiro/20050405



で、お花見の起源についてはこちら。
http://www.urban.ne.jp/home/higa/13hanamiJ/13hanamiJ.htm



春がきた。スゲー暖かい。山手線はクーラーを入れていた。桜の花びらが舞う通りを歩いていると、おばあちゃんが3〜4歳くらいの孫をおんぶしながら歩いていた。祖母の背中で孫は振ってくる花びらを掴もうと手を伸ばしたり「さーくーらー」などとはしゃいでいる。おばあちゃんも「綺麗だねえ」と楽しそうだ。

こういう風景を見たときの、自分の感じ方が昔と比べて変わってきた気がする。なんというか、子どもをとりまく世界というのは、命と命の触れ合いを感じさせる。以前はかわいいな、という程度の感情だったと思うのだが、自分にとって大切なるものを象徴しているという気にさせるのだ。

自分が子どもを育ててもおかしくない年齢になっているというのも大きいが、それだけではないと思っている。

おいらには姉がいたが小学校の頃に他界した。幼少の頃にいつも一緒に遊んでいた姉が亡くなるということは、受け入れるのにそれなりの時間を要したが、その過程は、自分の中で「死」というものが、身近で抗えないものとしてすり込まれる事だった様に思う。姉が他界してほどなく両親が離婚し、おいらは母親と二人で暮らすようになった。母は仕事での一定の成功を収め、経済的には安定した生活になったが、おいらと母親の間には段々と距離が生まれた。「家族」や「家庭」というものによりかかることは出来ないという価値観がおいらの中で形成された。

しかし、そんなおいらが21歳でかみさんと出会い、25歳で結婚した。彼女と一緒に暮らして4年になる。この一年、おいらの祖母や彼女の祖母や叔父、そして彼女の父親が相次いで他界した。彼女が家族の死と向き合う姿は、ある意味、おいらの価値観を揺さぶるものだった。彼女はまさに全身全霊で、その人の人生を愛し、死を哀しんでいた。おいらはその隣で、彼女を襲う哀しみをどうすることも出来ずオロオロしながら、自分にとっての家族観について考えさせられた。

一人で生きているつもりなどないし、他者への感謝も持っていると思う。それでも、かみさんの生き方に触れる中で、自分には、心のどこかに自分をとりまく人々を受け入れていない部分、心の中に閉ざしている扉がある様に感じ始めた。現在おいらは、自分の中にある「人は結局の所、一人ぼっちな存在なのではないか」という価値観を克服したいと感じている。

「人は一人では生きていけない。個人とは社会的存在なのだ。そして家庭とは個人にとって最も身近で小さな社会なのだ」という様なことを結婚するときに親友に言われた。その事をロッジックとしては理解した気になっていたが、自らの価値観にまで消化出来ていなかったのだ。彼女との生活は、そんなことを気付かせられる日々である。