ただいま

miyaMoto2005-08-10


原水爆禁止世界大会に参加するため、5日から9日にかけて広島と長崎に行ってきた。広島と長崎を訪れるのは数回目なのだけれど、毎回、現地に行く度に新たな発見や獲得がある。

概念や知識として“核兵器の恐ろしさ”を知ったつもりになっていても、現実にその兵器が使われた場所に立って、被爆者の話を聞き、資料館や平和祈念碑を訪れると、核兵器が使用されたという事実が、今なお大量の核兵器が地球上に存在しているという事実が、おいらの心をぐらぐらと揺さぶる。

記憶はいずれ薄れ、ここで見たり聞いたことも時間とともに色褪せていくだろう。だからこそ、おいらたちはくり返し、くり返し、事実を事実として記憶に焼き付けていかなければならない。なぜなら、被爆者の方々にとっては決して色褪せる事のない、心と体に刻まれ、消えることのない傷なのだ。

広島でも長崎でも、大会には本当に多くの青年が参加していて、青年のための集いも開かれた。長崎で聞いた被爆者の山口仙二さんの話が特に印象に残った。その時とったノートのメモを写しておく。

現在、被爆者の平均年齢は74歳。
昨年の一年間に7300人の被爆者が亡くなった。
こうして「原爆なくせ」と若い人たちが沢山集まっていることが嬉しい。
原爆というのは一人一人殺され方が違う。蒸発してしまう者、真っ黒に木炭の様になってしまう者…。私はその時上半身裸で作業をしていた。お尻から口から血が出て「今夜死ぬ」と医者に言われた。
自分の事として、自分だったらと思ってほしい。自分の命がああいう風に奪われたならと。
爆風で目が飛び出る、妊婦はお腹の子どもとともに、家の下敷きになって焼き殺される、自分の立場に置き換えて考えて下さい。
小さな女の子が「死んだらダメ」とお父さんにとりすがっていた。小さな女の子にまでそういう思いをさせた。
くる日も、くる日も原爆で人が死んだ。

ビキニでの核実験を日本の人たちが世界に訴えた。世界を動かした。(核実験は)大気圏内では出来なくなった。みんなの声が世論をつくり、核を持っている奴らも使えなかった。
もう被爆者はあと何年もしないでみんな死ぬ。
私が生きている間に核はなくならない。
でも、若い人たちがいるから、あなた方を信じている。
核兵器で人を殺す様な奴は人間じゃない。なくせると信じている。
無くなっていないけれど、核戦争をさせなかった。
私の体の中には、核兵器をなくすことだけが染みついている。

山口さんの被爆体験は以下のサイトで読むことが出来る
http://www2.nbc-nagasaki.co.jp/peace/voices/no06.html
http://www2.nbc-nagasaki.co.jp/peace/voices/no07.html


世界大会という名にふさわしく、多くの海外代表が参加していた。海外代表にも若い人たちが数多くいた。集会や分散会では、世界で広がっている反核・平和の運動の話を聞く事が出来た。

幾つか印象に残った発言のメモ

「銃を持つな、撃ってしまう」という言葉がある
これからの世界をどの様なものにするのかは、私たちの手にかかっている
ウズベキスタンの青年)


私たちに何が出来る?投票権という特権があるのなら、それを行使しましょう
フィンランドの青年)


未熟な私たちは、ベテランほどに夢破れてはいない。アイデアの交換が大事。より良い世界を目指すために
ノルウェーの青年)


「平和のことは私たちに任せて」をスローガンにしている。「どこかで犯された不正義はここにある正義を脅かす」というキング牧師の言葉を紹介。憲法九条を守ろうという運動に支持表明をします
(フランスの青年…大変に美しい女性)


核兵器に対して切迫感を持ってほしい。それをとりまく状況は危機を高めている。今まで使われなかったことで甘く見てはいけない。これは人類史上、最大の脅威。(人類は)様々な困難を乗り越えてきたが、これは未解決の問題。
保有国が広がっている問題、核知識の拡散によって初期的な段階の兵器であれば作り得る問題、失業した科学者達にそうしたものを作るという道が開かれている問題、核物質の管理がずさんなためにそれらが手に入りやすい問題などが進行している。
これらの危機は国際法によって食い止められてきたが、これを軽んじる動きがある。
(ウィラマントリー判事)


ペン、すなわち書き記す力の方が剣よりも強いのです
(レイ・ストリート/イギリス 核軍縮キャンペーン〈CND〉副議長)


カナダのウラニウムマンハッタン計画に使用されたことを、私はその罪を自らのものとして感じている
「怒れるおばあちゃんの会」をつくって多くの注目を集めたのよ。
NGOが始めた地雷対策の活動は、政治を動かし、政府が呼びかけるまでになった。核廃絶でも志ある政府によるイニシアティブが大事
(フェリス・クレイトン/カナダ 平和のための科学・カナダ核兵器廃絶ネットワーク…とびっきりキュートなおばあちゃん)

さて今回の旅、10数人でのツアーを組んで行ったのだが、大半は初対面の人ばかり。その中に、一緒にいるとおおいに刺激を受ける事ができ、また楽しめる人との出会いがあった。一人はおいらとほぼ同年代の男性で、もう一人は20代になったばかりの女性。

二人ともとても個性が豊かで話していて本当に面白かった。しかし、あまりに二人が魅力的で、一緒にいることが心地よいので、いったいこいつらにあるのは何だろう?と考えた。


自分の言葉で話し、とても率直。そして謙虚。

ユーモアがある。

人への見方が暖かい。

楽しむこと、情報を仕入れること、切りひらくことに積極的。意識的。

自らの思想を持ちながらも、他者との関係でそれを豊かにしていく姿勢がある。


彼らと一緒に、広島と長崎の町を歩き、美味いものを食べ、語り合い、充実した時間を過ごすことができ、今回の旅が忘れられないものになった。そうそうあるものではない、貴重な出会いに感謝。


それでは旅のスライドショーをどうぞ。



広島の爆心地で見上げた空。60年前、ここには2つ目の太陽ができ、多くの人々を一瞬で燃やし尽くし、それ以上に多くの人たちのその後の人生を踏みにじった。


宮島に行ったら普通に鹿がそこら中にいた。それこそ猫の様にひとなつっこい。


でけえ。右端にうずくまっているのが人間。こんなものをつくるのも人間。原爆をつくるのも人間。それをなくすためにたたかうのも人間。


宮島からみた夕焼け。宮島から帰る船の中で「灯籠流シハ、何時カラデスカ?」と聞いている外国人4人組に会った。ずっとじゃれ合って騒いでいる。一人がフジロックのTシャツを着ているので「俺もフジに行ったぞ」と話しかけると目を輝かせ「最高だったね。見てよこの日焼け」とリストバンドの跡のついた腕を見せてきた。「ジョンバトラートリオは最高だったよな」などと盛り上がる。駅に着くと電車がちょうどホームに入ってくるところで、一緒にわあわあと声をあげながら電車に駆け込み、今度は別の奴と電車の中で少し話をした。そいつは関西弁ペラペラで、大阪で高校生の英語講師をしているという。以前に広島に住んでいたことがあって、原爆の事を伝えたくて、友人たちを広島に連れてきたという。忘れられない出会いの一つ。


灯籠流し。
この後は広島での“お約束”ということでお好み焼き屋に。タクシーのうんちゃんが「あんまりお好み焼きは食べないからなー」と言いつつ「お好み焼きなら“みっちゃん”だね。他は全部おんなじ」と非常に矛盾に満ちつつも、かなり断定的な口調でいうので、“みっちゃん”に。船で出会った外人も「“みっちゃん”に行ったよ」と言っていたし。
なるほど、確かに美味い。


なぜだか、長崎ではほとんど写真を撮らなかった。充実しすぎていたのかも。長崎でもなかなか美味いオランダ鍋なるものを食べてきました。