おいらもスタンダップ

何日か前に映画「スタンドアップ」を観た。現在、ハリウッドで最も演技力を評価されているであろう女優の一人、シャーリーズ・セロンが主演している。実に美しい。


監督が意図したかどうかは別として、この映画は新自由主義経済が進行するもとでの“働くものたち(労働者)”の在り方を鋭く問いかける作品となっている。原作がノンフィクションという事で、これが本当に十数年前に米国で実際にあったことかと驚く方も多いかもしれない。それくらいに衝撃的内容でもある。ぜひ多くの方に観てもらい何かを感じてほしい。以降はネタバレを含むので、これから観る人はそのつもりで。


おいらがこれまで観てきた労働者のたたかいを描いた映画は、不当な事に屈しない労働者は常に仲間と支え合うことで闘いを前進させてきた。すなわち、労働者の連帯や団結は前提合意事項としてそこにはあった。多くの場合、それはイギリスやフランスの映画ではあったが。


しかし、この映画では不当なことに屈しない生き方を選ぶ主人公が、とことん孤立していく過程が緻密に描かれている。原作はセクハラの集団訴訟を起こした炭坑で働く女性たちを描いたノンフィクションらしいのだが、この映画では「集団訴訟」の現場は描かれない。いかにして孤立した闘いが続いたのかを描き、集団訴訟という連帯への道がいかに険しかったのかを描き、連帯が勝ちとられた瞬間にこの映画は幕を下ろす。しかし連帯の先は描かれずとも勝利が待っていることは充分に伝わってくるのである。今、描かれ、探求されるべきはテーマは“なぜ不当なことに対して「不当だ」と声をあげる人間が孤立してしまうのか”“どうしたら連帯は勝ち取れるのか”という事であることを、この映画は示している。


炭坑という男ばかりの職場にとまどいながらも飛び込んでいく女性達。彼女たちはユーモアと逞しさ、何よりも女同士の連帯で結びつくことで、日々を乗り越えていく。主人公は自分の稼ぎで家賃を払い、子ども達をレストランで食事させることが出来た時、涙をこぼす。彼女は炭坑という職場を得たことで、一人で立って生きることの充足を得る。しかし、セクハラを告発しようと呼びかける主人公だけが、彼女たちとの連帯を失っていく。あまりに切ない。なぜ、「正直でまっとうな彼女が孤立しなければならないのだ!なぜ彼女がここまで苦しまなければならないのだ」思わず観ていて怒りで涙が出そうになる。


成果主義賃金の導入や派遣など非正規雇用の拡大、アメリカ型雇用システムを次々に導入する日本の労働現場では、すでに多くの働く者たちが、孤独と自己責任のもとでひとりぼっちになっている。社会的うねりとなる様な反撃が起きなければ、ますます労働条件や、労働環境は悪化するだろう。ひっきりなしに対立と分断が持ち込まれ、いつ自分がスケープゴートにされるかと怯える暮らしが始まる。


「弱きものが、強気ものに痛めつけられている時、それを見ているあなたはどうするべきだ?たった一人でも立ち上がる(スタンドアップ)べきじゃないのか?」映画のクライマクスで彼女の弁護人が法廷で発する言葉である。


当ったり前のことだが、最初の一人が立ち上がらなければ、みんなが立ち上がることはない。しかしそこには大きな勇気と不屈な意志が必要だ。てことで、エブリバディ、スタンダップ