ナンニ・モレッティ監督「息子の部屋」を観た。01年のカンヌでパルムドールを受賞したイタリアの作品。悲しく、寂しく、美しい映画だ。

イタリアの静かな港町で暮らす幸福な家族に息子の死が訪れる。それは突然であり、あまりにも大きすぎる悲しみ。家族はひとつのピースを失うことでバランスを崩していく。「あの日、自分が息子と一緒にいたならば…」という思いを消し去る事が出来ず、患者への許容と客観性を失い、父は精神科分析医の職を続けられなくなる。ある日、息子宛の手紙が届く。家族は知らなかった息子の恋をする相手から。やがて彼女が家へと訪れ「息子さんの部屋を見せてくれ」と…


この映画は実にリアルに家族の死を捉えた作品だ。ここではドラマティックな再生や新たな希望は描かれない。家族の死とは、遺された者にとって、絶対的な喪失であり、時間が戻すことの出来ないものであることを突きつける事であり、欠けたものは埋める事が出来ないという事を正面から描いている。全員が悲しみを背負うが、それは一人一人違う悲しみであり、理解しあうことは出来ない。その事が、時に遺された者どうしを分断する。

おいらはこの映画を観て、自分の姉の死を考えずにはいられなかった。そして、この映画に出てくる妹に自分に重ねていた。この映画で娘は悲しみに暮れる両親を気遣う。母と父の部屋をノックして食事に誘うが、二人は出てこない。彼女は一人食卓について途方に暮れる。兄の死を悲しみながらも、その事で家族が崩れていくとき、まだ少女である彼女は寂しかったのだ。

姉が亡くなった後、家族の全員が悲しみにくれ、全員がそれを乗り越えようとした。それでもやはり、おいらの家族は姉の死をきっかけに形を変えてしまった。母は仕事に没頭する事に、父は酒に依存し家庭から遠のいた。やがて家族は分解した。欠けてはならないピースが欠けた時、その器は元には戻らない。完全な形をした器であった頃へは戻れないのである。


父親が運転する車に乗った家族4人が映し出される。息子のテニスの試合へと向かうのだ。カーステレオから流れるイタリアのポップスに合わせて、父はハンドルを握りながら歌う。その音痴さに家族は閉口するが、父は楽しそうに気分良く歌う。二人の子どももやがて歌い始め、つられて母も思わず声をあげて歌い出す。

別れの時には
できたら笑って
苦しいけれど
生きるために少しだけ死ぬの
さよなら恋人
雲は向こうの空へ


ラストシーン、冬の海岸を3人が歩いていく。寄り添うのではなく、別々の方向へ歩くのでもなく、少し離れてそれぞれが歩いていく。ナンニ・モレッティの回答はここにあるのだろう。

息子の部屋 [DVD]

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